機関紙『解放新聞』2055・2056号より

異議申立棄却決定批判-背を向ける裁判所

結論のみならず、事実認識でも独断に過ぎ
十分な論証に欠けるのは、この棄却決定だ!!

 東京高裁第五刑事部の高橋省吾・裁判長が出した異議申立棄却決定文は、A4判90ページにわたる大部なもの。しかし、その半分以上は弁護側の主張の要約であり、それ以外の中身は高裁第四刑事部の高木俊男・裁判長の出した棄却決定(原決定)を、弁護側の指摘した原決定批判のか所をとことん無視したうえで擁護しただけの、まったくお粗末な内容となっている。市民的な常識からも明らかに石川さんの無実を示す証拠についても、詭弁を弄し、白を黒と言いくるめるペテン的いいましを、そのまま受け継いでいる。司法改革審議会の答申を受け、司法をどう国民のものとするかが論議されるなかで、今回の棄却決定は、司法の民主化がこの国ではまだまだすすんでいないことを示した。また、国民の司法にたいする信頼を大きく揺るがすものでものでもある。今号では、棄却決定の問題点を、総論と異議審段階で提出された新鑑定を中心に見ていく。

事実調べなしなのに居直る
 狭山弁護団がこの再審で求めているのは、白鳥・財田川決定(新旧証拠の総合判断など)をきちんとふまえたうえでの審理である。
 ところが、今回の決定は、再審を「特殊の救済手続き」をしたうえで「旧証拠の再評価といっても限度がある」と、再審の幅そのものを狭く解釈している。そのうえで、原決定が「孤立評価説を採るものではなく、両決定(白鳥・財田川決定のこと−引用者注)にいう総合的評価説の立場に立っていることは、その判文上明らかというべき」としている。
 ようするに、原決定が「総合的に評価」と文字面だけでも書いてあるのだから、「非難は当たらない」というわけだ。文字面さえよければ、それでいい、ということだ。
 しかも、事実調べをおこなわなかったことについても、「裁判所としては、自ら直接、その証拠書類等を検討し、その証明力を判断することができる」から、必要ないと居直っているのである。このことは、専門家間で意見が異なる、狭山事件の鑑定について、真摯に証拠と向き合い、真実を解明する姿勢が見られない、と非難されても仕方がないだろう。

心理的状態がとくり返す
 筆跡については、棄却決定は原決定をそのまま踏襲している。
 神戸第2鑑定だけでなく、伝統的筆跡鑑定に関するものでは、石川さんが書かされた上申書と脅迫状などについて相違があるように見えるのは、「書字・表記、その筆圧、筆勢、文字の巧拙等は、その書く環境、書き手の立場、心理状態等により多分に影響され得るのである」からだとする。むしろ両者は異なっていて当たり前、とするのだ。
 その根拠としてあげるのが、石川さんが獄中で脅迫状を手本にして書くことを覚え、出した手紙やハガキなどが、脅迫状の筆跡や文字使いに似ているから、というのである。もともと、石川さんは学校教育をまともに受けていなくても、社会経験を積んでいたので、読み書き能力はあったのだ、と決定はしている。
 しかし、事実はそうでなく、読み書く習慣がが日常的になく、小学校教育もまったく不十分だった当時の石川さんは、脅迫状をもとに字を覚えていったのだ。当然、字などが脅迫状に似てくるし、識字学級に通う人を見てもわかるように、社会経験を積んでいる分だけ、わずか数か月で見違えるほど、読み書きのすべての面で上達してくるのである。ところが、社会経験を積んでいない裁判官は「僅か1、2箇月の学習で、書字、配字、筆勢、運筆等」が上達する事実がわからないのだ。
 相違は「心理的なもの」、石川さんにはもともと脅迫状を書く読み書き能力があった、というのは、石川さんをなんとしてもクロとするための詭弁でしかない。であるならば、字がわからないのでマンガ雑誌『りぼん』を手本に字を拾い出し脅迫状を書いた、とする自白はどこへ行ったのか。上申書と脅迫状の筆跡が異なって当然なら、警察側の筆跡三鑑定は何を根拠に上申書と脅迫状の筆跡は一致するといっているのか。このことをこそ明確にすべきなのだ。

独断、推論との決めつけで
 齋藤保・鑑定人が提出した三鑑定について、棄却決定は論理以前の「作文」で逃げ切ろうとしている。
 脅迫状封筒の「少時様」については、何の根拠もなく、写真を見ると「少時」と「様」が「それぞれ別異の筆記具を用いて書かれたとするのは、いかにも不自然」ですべてボールペンで書かれたもので、指紋検出のさいの溶液のかかり具合によって「少時」は、ほとんど完全に消滅し、「様」は色素が拡散してしまわなかった、と全くの推測だけで強弁している。両者の現状の違いこそ、筆記具の違いをあらわしているのだ。
 また、封筒などに作業用手袋の跡が存在することについても、それを写真で見ても明白であるにもかかわらず、「そこまで判定可能かすこぶる疑問」「判然としない」などといってごまかそうとしている。
 封筒の「中田江さく」の文字の滲みから、これが犯行以前に書かれた点についても「その結論のみならず、そこに至る事実認識においても、独断に過ぎ、十分な論証に欠ける嫌いがある」「齋藤第2鑑定の指摘は、筆角推測の域を出ない」と結論づけている。
 齋藤さんが柳田律夫さんとともに出した「第3鑑定」については、「その結論のみならず、その前提をなす事実の認識判断が、独断に過ぎ、にわかに賛同することはできず、それは一つの推論の域を出ないものというほかはない」としている。
 しかし、「その結論のみならず、そこに至る事実認識においても、独断に過ぎ、十分な論証に欠ける」のは、この異議申立棄却決定なのだ。

確定判決に合理的疑いがあれば再審に

実験の条件がと難癖をつけ
 今回は、指紋検出の問題を見てみよう。
 これは、すでに読者のみなさんがご存知のように、脅迫状、脅迫状の封筒からわずか五個しか指紋が検出されていないことにたいし、自白通りの仕方(素手のまま脅迫状を書いたことになっている)なら、多数の指紋が検出されるはずであることを、具体的な公開実験をとおして明らかにしたもの。斎藤保・指紋鑑定士の手になる斎藤実験鑑定書を提出していた。
 この実験では、石川さん、当時の石川さんと同じ年代、両者の中間の年代人と、年代ごとに異なってくる分泌物の関係も考慮しておこなったのもので、自白通りなら多数の指紋が検出されることが、明らかになった。
 これにたいして、異議申立棄却決定は、「実験の条件設定が本件封筒・脅迫状の作成、保管状態等を正確に再現できたものか明確でないから、同鑑定書(斎藤さんの指紋鑑定のことー引用者注)も前記結論(必ずしも指紋が検出されるとは限らない、という再審棄却決定の結論のことー引用者注)を左右するものではない」としている。一体全体、指紋検出に冠する公開実験が信用できず、「条件設定が本件封筒・脅迫状の作成、保管状態等を正確に再現できたものか明確でない」というのなら、裁判所が気に入るように、みずからがおこなえばいいのだ。そのときに、必ずしも指紋が検出されるとはいえない、という状況にならないことは確実だ。
 そのために、異議申立棄却決定は何癖をつけ、斎藤指紋鑑定を門前払いにしたのだ。

口つぐみ何も語らず棄却に


観察方向と三角形の関係。
平面的に同じ三角形でも立体化すると全く違ったものになる(緑色の三角形を参照)。関根・岸田鑑定の平面上での三角測定の誤りが明らかになる。

 足跡に関しても、異議審段階で新鑑定を提出した。山口・鈴木鑑定がそれで、三次元スキャナをもちい、「あ号破損痕」が一致するとする足跡はひじょうに不鮮明なため、それが石川さん宅から押収された地下足袋でできたものだ、という結論を導き出すほどの証拠価値そのものをもっていないことを明らかにしている。また、「あ号破損痕」の両端の二点と三本線のうちの中線の端を結ぶ三角形の類似を警察側鑑定が強調するが、それは写真を通じた平面上の指摘であって、この三角形を三次元空間で比較すると、まったく異なったものであることも明らかにした。
 これにたいし異議申立棄却決定は、とにかく竹の葉型模様後部の三本の横線は明瞭に見える、これは特徴的なものだから証拠価値がないとはいえない、としている。しかし、これは同じメーカの地下足袋ならいえることで、まったく固有の特徴でも何でもないのである。ごまかし以外の何者でもない。
 また、警察鑑定による平面上での三角形の一致について、さまざま観点から比較検査を実施したものであって、その鑑定方法は客観的妥当性のある信頼度の高いものである、とするだけで、山口・鈴木鑑定が指摘した三次元段階での相違については口をつぐんだまま、何も語らず、棄却しているのが実態だ。

かってに認定を変えるから
 殺害方法についても、異議申立棄却決定は、検察が求意見のなかで出してきた石山鑑定(被害者のブレザーの襟をつかんで殺害)を援用し、殺害方法を変更しているのである。
 つまり、確定判決(寺尾判決)では、手などによる扼殺としていたものを、再審棄却決定では石川さんの最初期にあった自白を援用し、タオルで首を絞めたうえに扼殺もしたと絞扼両用に変更した。ところがこれだと、被害者に目隠しをしていたタオルを、いつ、どのように取り上げ、首を絞めたかが問題になるので、今回は石山艦艇に全面的に乗っかかる、というように変更したのだ。
 問題は、確定判決に合理的疑いがあれば、再審を開始する、という理念を無辜の救済のために、どう具体化するのか、ということだ。
 具体的な鑑定による証拠を、その中に入り込んで判断するのではなく、まったく検討せずに門前払いにする。裁判所にとって都合の悪いものは、こっそり事実認定を変更する、というやり方が許されていいのかどうか。
 殺害方法の裁判所による、このような度重なる変更、筆跡の問題での変更(確定判決は石川さんに国語能力がないから、脅迫状の作成のためにマンガ雑誌を使ったと認定している。にもかかわらず、原決定、異議申立棄却決定は、石川さんには脅迫状を書く国語能力が当時からあったと認定を明確に変えている)は、確定判決にたいする合理的疑いではないのか。これがそうでないというなら、再審の理念そのものが、裁判所によって完全にゆがめられていることになる。
 狭山再審闘争の課題は、この国の裁判制度そのものを、どう民衆のものに変えていくのか、証拠開示の問題など、国際的なスタンダードにいかにあわせるのか、というものも必然的に含んでくる。
 特別抗告審の闘いを、そうした視点からも断固闘い抜こう。